「アルプスの少女ハイジ」「火垂るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」「かぐや姫の物語」巨匠の残した言葉、、、「自らの愚かしさに目を向けよ」

中学生になったかならないかの頃、夢中になってテレビにかじりついて見ていたのが「アルプスの少女ハイジ」でした。当時はその理由すら良くわからないでいたのですが、冒頭のハイジが「荷物になるから」とありったけの服を着こまされて、山の急傾斜を登っていく様、その服を途中でたまりかねて全て脱ぎ去り下着姿になってハツラツと駆け回る姿。この描写の表情、動きがあまりにも自然で、可愛らしく、ものすごく生命感を感じたことを覚えています。

テレビで漫画を見ることが娯楽であった私に「アニメ」という新しい概念を気づかせてくれた瞬間だったのかもしれません。

のちにこの「アニメ」とはラテン語で霊魂を意味するanima(アニマ)に由来しており、「生命のない動かないものに命を与えて動かすこと」ということを知り、「なるほど!命として魂に直接語りかけてくるんだ!」なんてかってに納得してました。


もちろんそれまで夢中になって読み漁っていた漫画雑誌の登場人物が織りなす世界にも、十分感情移入してきていましたけど。それはあくまでも別の次元の住人の繰り広げる世界観で、そこへ自身が訪ね入るといった感じでしょうか?


ただ高畑勲氏の作り出す世界はより自分の足元に近しいもので、どの作品のどの登場人物も写実的であろうがなかろうが確実に命あるものとして自分と同一線状に存在すると感じさせられます。


中でも遺作となってしまった「かぐや姫の物語」の「たけのこ」の赤ちゃん時の描画は圧巻で、鳥獣戯画のような輪郭線だけで質感を表現し、動きも本物よりもさらにリアルに自身の子供の赤ちゃん時の様を思い返すような出来栄えに「この先こんないたいけな表現のできる人は二度と現れないんだろうな」と思わざるを得なく、残念でしょうがありません。

そのいたいけで、愛おしい子達、「ハイジ」に「節子」に「たけのこ」が今でも自分の心の中にぐっさりと居座っています。

とりわけ「火垂るの墓」の清太と節子の兄妹においては自身も妹がいますので、見るたび、思い返すたび「俺も清太と同じ境遇にあったら、、、妹を結局、、、死なせてしまうんだろうなと、、、」そんなリアルを感じてしまいます。

人はその都度その度、感情に支配されて生きています。その先に何が起こるかなど予測ばかりして行動するわけではありません。

逆に言うと、感情を激しく揺さぶる行為そのものが生きることの実感を生み出しているのかもしれません。

高畑勲氏が魂を与えた者たちは皆、感受性豊かに、一所懸命にその生命に向き合い、燃やそうとあらがいます。
そこに必然的にうねりが生じます。

このうねりが他をも巻き込むのだとしたら「たけのこ」の罪と罰はこの生きるということそのものだったのかもしれません。

「生きるということ自体が罪を重ねること」といえば言い過ぎかもしれませんが、巨匠が残した言葉『自らの愚かしさに目を向けよ』には「生命のない動かないものに命を与えて動かすこと」に生涯を捧げた天才だからこそ言える、「いろんなものを代償として存在する、自らに与えられた命を軽んずるな」との思いが詰まっているように響きます。

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